鳩山郁子『カストラチュラ』を読み返したんだけど、これ、鳩山先生が20代後半で描いたことに気付いて震えた。天才か(天才です)。
食肉文化がなくなり、もはや動物や海鮮類を口にするのは野蛮な人間だとされるようになった時代の架空の中国都市が舞台。登場人物は前皇帝が寵愛したカストラートであるシャーロット・リンに恋をした主人公マオと、貴族の末裔で食肉への異様な執着を見せる白人系の同級生シューリー、彼にマゾヒスティックな欲情を抱く見習い調理師のインアル、ときおりリンの意識の中に登場する剥製にされたカストラートのファンディーチュン、シューリーの叔母で纏足された足を解いた経験を持つフォンリー。
もう羅列するだけでおもしろそうなんだけど。異質で異様な世界観と爽やかな絵柄、陰鬱な闇の描写の対比が美しい中で、「おりなされる肉と削除の物語」(Amazonの書籍紹介より)が展開される。
肉食を忌避しながらもかつての宮廷料理の目録に興味があるマオ。幼少期に、こっそり肉食していた官僚の男性を彼の庭に迷い込んだ際に偶然見掛けてしまい、肉を口にしたことが忘れられないでいる。シューリーは貴族的な生活をしながらも一族が社会になじんだように見せるためのスケープゴートとなり、肉食を否定する教育を受けるため新興勢力の寄宿舎学校で生活するが、そのストレスからかサディスティックな一面を見せ、自身に好意を抱くインアルを使って肉を手に入れてこっそり食べる生活を送っている。リンは宮廷時代の記憶と現在を行き来するかのように生きており、破滅(もしくは解放)に向かって膨らみ続ける。
物語において頻繁に登場するモチーフは食肉と肉体、欲望、浮遊で、その存在がむしろそれぞれによって成り立っていることの証明として描かれているように読める。重苦しい体をより地面に近づけることに眉をひそめ、纏足によりわずかな点だけを地上に踏みしめ、まるで半分以上が浮いているかように佇む姿への礼賛。それが美しさの観点であるこの世界の価値観、というかかつての中国の価値観を見事に表現していて、亡きカストラートたちが纏足靴を翻しブランコに乗っている幻影は、解放されてもなおその美しさの呪縛からは解き放たれることがないという表現として見事に描かれている。これはリンが見る幻影だから彼が呪縛され続けていることへのメタファでもあるんだけど、ただひたすら異様なる美を体現するためだけの存在として生かされてきた彼が現在においてそうではなくなり(かわいいけど)最後の砦でもあった歌声をも失ったときに皇帝からかつての情人がせめてものなさけとして与えられていた辰砂で服毒自殺する。しかし亡き彼の姿はかつての若かりし日の姿へと還元され、また意識体においてもカストラートとなる前後の幼年期の姿となった。一方で、解放されているはずのファンディーチュンは剥製時代のままで、たしか続編のシューメイカーでも外套ははおっていたけれど中はその姿のままだったように記憶している(違ったらごめん)。
解放されたいと思いながらも、いつしかその囚われの状況そのものがアイデンティティとなっていたことに彼らは気づく。でももうどうしようもなくて、持ち得たものが少しずつ指の隙間からこぼれおちるようになくなってきしぼんでいくようにそのときを迎えるが、本当にそれは解放だったんだろうか。ファンディーチュンの姿を見ると少なくともそうは思えず。
ヒューマンドラマは突き詰めれば生きることとは何、というテーマにたどり着くけど、どちらかというと生への礼賛ではなく生きてしまっている上でしたいことや欲しいものを手にした人、手にできる人、手にできなかった人を登場させることで残酷にも「生きなければならないこと」を皮肉に表現したのがこの物語の真髄ではないか。
とか色々書いていてよくわからなくなったので続編の『シューメイカー』も読んだらまた何か書きます(たぶん)。
食肉文化がなくなり、もはや動物や海鮮類を口にするのは野蛮な人間だとされるようになった時代の架空の中国都市が舞台。登場人物は前皇帝が寵愛したカストラートであるシャーロット・リンに恋をした主人公マオと、貴族の末裔で食肉への異様な執着を見せる白人系の同級生シューリー、彼にマゾヒスティックな欲情を抱く見習い調理師のインアル、ときおりリンの意識の中に登場する剥製にされたカストラートのファンディーチュン、シューリーの叔母で纏足された足を解いた経験を持つフォンリー。
もう羅列するだけでおもしろそうなんだけど。異質で異様な世界観と爽やかな絵柄、陰鬱な闇の描写の対比が美しい中で、「おりなされる肉と削除の物語」(Amazonの書籍紹介より)が展開される。
肉食を忌避しながらもかつての宮廷料理の目録に興味があるマオ。幼少期に、こっそり肉食していた官僚の男性を彼の庭に迷い込んだ際に偶然見掛けてしまい、肉を口にしたことが忘れられないでいる。シューリーは貴族的な生活をしながらも一族が社会になじんだように見せるためのスケープゴートとなり、肉食を否定する教育を受けるため新興勢力の寄宿舎学校で生活するが、そのストレスからかサディスティックな一面を見せ、自身に好意を抱くインアルを使って肉を手に入れてこっそり食べる生活を送っている。リンは宮廷時代の記憶と現在を行き来するかのように生きており、破滅(もしくは解放)に向かって膨らみ続ける。
物語において頻繁に登場するモチーフは食肉と肉体、欲望、浮遊で、その存在がむしろそれぞれによって成り立っていることの証明として描かれているように読める。重苦しい体をより地面に近づけることに眉をひそめ、纏足によりわずかな点だけを地上に踏みしめ、まるで半分以上が浮いているかように佇む姿への礼賛。それが美しさの観点であるこの世界の価値観、というかかつての中国の価値観を見事に表現していて、亡きカストラートたちが纏足靴を翻しブランコに乗っている幻影は、解放されてもなおその美しさの呪縛からは解き放たれることがないという表現として見事に描かれている。これはリンが見る幻影だから彼が呪縛され続けていることへのメタファでもあるんだけど、ただひたすら異様なる美を体現するためだけの存在として生かされてきた彼が現在においてそうではなくなり(かわいいけど)最後の砦でもあった歌声をも失ったときに皇帝からかつての情人がせめてものなさけとして与えられていた辰砂で服毒自殺する。しかし亡き彼の姿はかつての若かりし日の姿へと還元され、また意識体においてもカストラートとなる前後の幼年期の姿となった。一方で、解放されているはずのファンディーチュンは剥製時代のままで、たしか続編のシューメイカーでも外套ははおっていたけれど中はその姿のままだったように記憶している(違ったらごめん)。
解放されたいと思いながらも、いつしかその囚われの状況そのものがアイデンティティとなっていたことに彼らは気づく。でももうどうしようもなくて、持ち得たものが少しずつ指の隙間からこぼれおちるようになくなってきしぼんでいくようにそのときを迎えるが、本当にそれは解放だったんだろうか。ファンディーチュンの姿を見ると少なくともそうは思えず。
ヒューマンドラマは突き詰めれば生きることとは何、というテーマにたどり着くけど、どちらかというと生への礼賛ではなく生きてしまっている上でしたいことや欲しいものを手にした人、手にできる人、手にできなかった人を登場させることで残酷にも「生きなければならないこと」を皮肉に表現したのがこの物語の真髄ではないか。
とか色々書いていてよくわからなくなったので続編の『シューメイカー』も読んだらまた何か書きます(たぶん)。