最近、フェイクドキュメンタリーQにハマっている。人気ホラー系Youtuber「ゾゾゾ」の皆口大地とホラー監督である寺内康太郎のコラボ企画。視聴者に謎すなわち「Q」をなげかける形式のモキュメンタリー短編ホラーシリーズで、現在シリーズ2がたまに配信されている。どう考えても無料で見られるようなクオリティーじゃないのでファンも多く、たまたまシリーズ1の後半配信中に気付いて見始めたのは去年の夏。個人的にはシリーズ1の「似顔絵」「来訪」「ラスト・カウントダウン」あたりが胸をかきむしられるほど好きだ。


「似顔絵」は、ドキュメンタリー作家が取材した夫婦についてのモキュメンタリー。元似顔絵捜査官だった夫は現在若年性認知症を患っており、朝早くから夕方まで家族も知らないルートで散歩をしている。帰宅したら似顔絵を描くのが日課となっているが、それが誰なのかは明かすことはない。あるとき、ドキュメンタリー作家はその描かれた似顔絵が、その地域で行方不明となった人々に似ていることに気付き……。夫がなぜ行方不明者を似顔絵で描けるのかは謎のままだし、それに気付いたドキュメンタリー作家のうれしそうな表情も不気味でとても良い。



「来訪」はとある東北地方に伝わる門外不出の呪いの儀式「レイホ」を極秘に撮影した貴重な映像、という設定のモキュメンタリー。定点カメラが映し出しているのは亡くなった依り代となるご遺体で、数日間寝床に寝かされたその亡骸は呪いを呼び込むために使われる。口承のみで伝えられている儀式であるため当然撮影は禁忌とされている。果たして、撮影者を追い詰めたのはカメラの存在に気付いた呪術の実行者たちなのか、呪いによって召喚された存在なのか。東北の田舎で本当にありそうで、不気味さと恐怖に満ちていてホラー好きを興奮させる要素満載。



「ラスト・カウントダウン」はテレビで放映されたいわくつきの12の映像が収められている映像集。深夜番組やたまたまつけたテレビで見かけたような映像に説明が添えられており、淡々と流れていく。どれにも不気味な雰囲気が漂っており、過去に寺内監督が手がけたホラーに登場した映像もいくつか紛れ込んでいる。「トラホンピータ」や「あなたは春田君まで、あと何周?」といったキャッチーなフレーズも登場し、ファンの間では「失敗や!」(S1-4)同様に合言葉となっている。



そんな傑作揃いのフェイクドキュメンタリーQのシリーズ1だったが、シリーズ2では2話以降若干おもしろみが停滞しており、個人的に少し熱も冷めつつあった。しかし、9月に突如ライブストリーミングが配信。当初、アーカイブには残さないとアナウンスされていたこともあり、同時接続は1万人を超える盛況ぶりに。当然囓りついて見ていたわけだが、これが文句なしのおもしろさだった。

生配信前に公式Xから提示されていた黒塗りの文書がヒントとなり、それを手がかりにストーリーを追うと、どうやら謎のカルト宗教団体が何かを遂げるための生物兵器を秘密裏に製作しており、その存在や儀式を内部告発者が生配信で全世界に向けて公開したという設定のモキュメンタリーだ。信者は放射能汚染区域で着用するような防護服を着ていたが、幹部と思わしき人物は軽装。そのことから、扱っているのはウイルス系の生物兵器で、幹部は既に感染対策をしているのだろうと想像させる。また、信者たちが恭しく扱っていた謎の箱。幼稚園児くらいなら入りそうな巨大な箱はあちこちがうっすら血で汚れていて、80年代を彷彿とさせるシールが無造作に貼り付けられている。これがおそらく生物兵器(もしくはその実験体)だろうと推測できるが、中に入っているものを想像すると良い感じに怖気立った。



結局、このEXはファンの要望もありアーカイブが公開されることに。酒を飲みながら公開されたアーカイブを見た後、ふと映画「リリィ・シュシュのすべて」が生配信していることに気付く。岩井俊二監督の新作映画「キリエのうた」が13日公開ということで、その記念に生配信されていたらしい。

改めて見ていると、主人公の雄一(市原隼人)の抱える鬱屈と彼の無力ゆえの残酷さが容赦なく突き刺さる。自分は弱いと事なかれ主義を貫いているのに、好きな女を守れないどころか貶めることに加担するという残酷さ。いい人って自己防衛に優れているので、本当に驚くほど容赦なく弱者を切り捨てるよなあと思うことがたびたびあって、そういう人たちに雄一の姿が重なった。岩井監督はするどい。

映像美とドビュッシーの青白い滑らかな旋律。緑と風と透明な空。ほどよい田舎への苛立ちが熱とともに籠もって、ひっそりと生きている弱者たちに容赦なく牙を剥く。その暴力は下卑た笑いと共に薄暗い工場のほこりに紛れてむさぼり尽くすのだ。

10代から20代前半くらいまでの、どうしようもない苛立ちと行き場をなくしたエネルギーはいったい何だったんだろう。二次性徴くらいから皆少しずつおかしくなっていったように思う。あの爆発的なエネルギーをうまく正に向けられたら後の人生の生きやすさに繋がったかもしれないが、人生そう上手くもいくわけもなくというのは、それをテーマにした映画や漫画、小説が腐るほどあるのを見ると明確だ。

でも、鬱屈とした精神は美しいと思う。アンニュイで鬱屈としていて、退廃的な生活を送る人々の人生は輝いている。順調に生きている人たちはそれはそれで眩しいが、その光は例えるならはLEDに似ている。すとんとしたまっすぐのよどみないプラスチックのような光。一筋縄ではいかず思い悩み苦悩する人生は、電球色の白熱電球のようで味わい深く、触れると火傷するほど熱い、と傍観者は思ってしまうのだ。