ベネンシアドールが銀のベネンシアを優雅に操りながらシェリー酒をグラスに注ぐ様子を眺めていたら、ふいにジョルジュ・バタイユの『眼球譚』が読みたくなる。生田耕作訳の肉を思わせるピンクの表紙の文庫は何度も買って何度もなくして今回もまた見つからなかったが、中条省平訳の『マダム・エドワルダ/目玉の話』を買ってKindleに入れていたのを見つけたので再読。



言わずもがな、フランスのエロティック古典で哲学や神学的な要素が多分に含まれていることもあり、現代に置いても文学ファンの心を掴んで話さない名作だ。かなり好きなことは言うまでもないが、うかつに人にオススメできないのがもどかしい。

シモーヌとマルセルと「私」の鬱屈とした気分を莫大な性的なものに変換されたエネルギーで暴力的に破壊していく物語である。成人漫画もびっくりな性的なシーンが延々と続くが、突き抜けすぎて逆にエロくないのがバタイユの特徴とも言える。

目を見張るシーンは多数あるが、あげるとしたら冒頭のシモーヌが皿に座るシーン、マルセルとの邂逅、病院にいるマルセルが月の下でおもらししたシーツを広げるシーン、マルセル救出、闘牛場でのシーン、教会での瀆聖と殺人あたりに多くの人が圧倒されるのではないか。

中でもやはり私の記憶に色濃く残っているのは闘牛場でのシーンだ。シモーヌが皿にある今しがた抉り出された牛の睾丸に座りたいのに、なかなか気恥ずかしさから思いきれないという珍しい一幕。彼女にもそんな羞恥心があったのかと感心(?)するも、直後に全てを台無しにしてくれるような乱痴気が描かれており、その限界を希求するような狂おしさにある種の感動を覚える。

あまり口にしたくはないが、多分私はシモーヌに憧れ続けていて、例えば山本直樹を読んだときもヒロインたちにシモーヌを重ねていた気がする。しかし、シモーヌのように底抜けの、青天井の、怪物じみた存在はいなかったように思う。『夕方のおともだち』の雪子女王様だって、情熱において吉田に負けたのだから。

そんなシモーヌは『眼球譚』の終幕に向けた草案では(客観視すると)悲劇的な末路を歩むことになっているが、がちょっと納得がいかない。

例えば『ヘルタースケルター』(岡崎京子)のりりこのようにたくましく、怪しい見世物小屋の女主人になってほしいというのは月並みの願望だろうか。



昂揚を支えるのは孤独と、意味の不在。意味のなさに内包される法悦。果たして意味のあるものばかりを追い求めるのが人生だろうか。

そうえいば、映画「バタイユのママン」は『わが母』と『マダム・エドワルダ』が下敷きとなった物語だ。母を演じるイザベル・ユペールとルイ・ガレルの息子。映画ではイビサが舞台だったかな。憂鬱な放蕩があまりに美しいイザベル・ユペールは、どの映画で見ても鬱屈とした神経質な表情、ガラス細工みたいな横顔が最高だよね(好き)。



『マダム・エドワルダ』と『わが母』は、ふたつとも三島由紀夫が『小説とは何か』で絶賛しているらしいので読みたいところです。