自分の中で静かなバタイユブームが再来したので、『わが母』も読み返す。ああ、生田耕作訳は美しいけれどなかなか読みづらい……と思いながら、それでも放蕩の母と美形の息子の狂おしいほど切ない関係がダイレクトにえぐってきて心地よい。



そもそもこれはクリストフ・オノレの映画「ジョルジュ・バタイユ ママン」の原作。映画の方はイビサ島が舞台で、ママンであるヘレン(原作ではエレーヌ)はイザベル・ユペールが演じていて、適役としか言いようがない。そして息子は若かりし日のルイ・ガレル。ヘレンの愛人であるレア役のジョアナ・プライスもわざと醸し出す下品な雰囲気とはすっぱな笑顔が最高にレアでしかなく、美しいイビサで繰り広げる狂乱な宴や放埒な日常に陶酔しないではいられない作品だ。

映画版がとにかく好きなんだけど、どこがどういうふうに好きなんだろうと思いながら原作を読むと、たぶん突き抜けるようなエロスとそこに潜んでいるタナトスに魅了されているからなんだろうなと思う。理性を壊して欲望のままにどこまで行けるかを追求するその姿を羨ましくも思うし、そうしないと死んでしまうような生き様に恐れも感じる。現代的にいえばバタイユ作品の登場人物たちはたぶん性依存症なんだけど、その一言で片付けるとバタイユに野暮だと笑われてしまうだろう。



だいたい100年前の作品なので、今よりも性的なものがもっと密やかで隠されて罪悪感とともに語られるような存在だったはず。そんな中で、今でも「ぶっとんでるよね」と思われるような日常を送る彼らは、やはり眩しい。眩しくて目がえぐり取られそうになる。

『わが母』では、彼女やピエールの周りの女たちは結局皆エレーヌに“調教”されており、破廉恥な性嗜好に耽溺する自分を恥じながらも欲望に打ち勝つことができない。別にいいじゃん、それで、と思うけれど、なにせ大昔のことだしキリスト教圏なので性に溺れることは非常に罪深いことだったのだろう。しかもバタイユは涜聖をテーマのひとつとして扱っていることもあり、神への冒涜がどれほどまでに罪深いかを彼女たちの懊悩を通して描いていて、「汚してやるぜ!」といわんばかりの展開が満載だ。

彼女たちの苦しみは、現代の多様性の時代に生きる自分たちでは想像もつかないほどのものだ。一方で、エレーヌはその苦悩をスパイスとして存分に楽しんでいる。そんな彼女でも息子との関係となると一筋縄ではいかないというのが、この作品の面白みであり見どころである。

現代の近親相姦ものは、だいたい悩みながらもそんな背徳的な状況を受け入れて、ハッピーエンドか破局エンドかという感じでさらっとしていてわかりやすいが、『わが母』は他人の性をもてあそび悪魔のようなエレーヌがピエールとの関係を、彼への複雑な思いを受け入れるまでの苦しいほどの葛藤をバタイユが楽しそうに描いている。結局欲望に抗えず、あのような末路をたどるのは悲劇だったのだろうか。幸せの絶頂で絶命することは、エロスとタナトスがお互いの境界線をふと融解させた瞬間なのではないだろうか。