植本一子『降伏の記録』を読み終わり、ECDとの共著『ホームシック』を読み、ようやく『台風一過』にたどり着いた。
石田家関連本は5冊目。本当に簡単に触れると、才能ある若き写真家がアンダーグラウンドで人気を博した24歳年上のラッパーと結婚して娘を2人産み、恋人たちとの関係から一時は離婚を考えるもとどまり、ラッパーは57歳で癌により逝去するという流れ。
そもそも植本とECDとの交際スタート時から植本には交際を考えていた別の男性がいて、ECDに了承を得て3人で交際し始め、長女はこの恋人と一緒に育てたという経緯がある。これについて批判するのは完全にお門違いで、彼女がポリアモリーかどうかは分からないが(『台風一過』ではそうだとは思えないとの記述があった)、交際や恋や愛や育児にはさまざまな形があるべきで現にいろんなかたちで皆生きていっているので、彼女たちの場合はそうであったというだけである。個人的なことを言えば、良い生き方だなと思う。自分に素直であることは本当に大事だと年を取ってから痛感する。信念を捻じ曲げて生きていったりすると結局自分が苦しくなって歩けなくなってしまうので、いつだって正解は自分のやりたいようにすること、だ。
さて『降伏の記録』だが、ものすごく良かった。文章がうまいのは相変わらずだが、流れるようにつっかかりのない表現や比喩や描写がするすると入ってくる。細胞に馴染むのが上手な文というのだろうか。本来なら優しくしてあげればいいのに、と自分でも思いながらも死に向かいつつあるECDの存在を受け入れられないという正直な気持ちや、その苦しさ、絶縁した母との関係や育てられ方に起因する苦悩などが丁寧に書き連ねられていた。
たしか『かなわない』で植本は境界性人格障害だと診断されたことを告白していた。少なくとも『家族最後の日』までは「誤診では?」と思っていたが、本作ではその診断もあながち間違っていなかったのかもしれないと感じさせるスリリングな記述がいくつかあった。というのも、彼女には友人がたくさんいて距離の近い人間とはとてもバランスの良い関係を築いていた。しかし『降伏の記録』では精神状態がより不安定だったこともあり、人間関係が危ういバランスで保たれていることがそこかしこから顕著になる。
特に友人や気になる男性への気持ちは、ほんのちょっとしたことでいとも簡単にくずれてしまいそうだった。家族ぐるみで親しい男性の友人への気持ちが友情なのか恋愛感情なのか分からなくなる。それを、家族が読んでしまうことを知っていながら書いてしまう。でもこれは、隠してしまうと嘘になるのだ。彼女にとって、包み隠さず書くことは自分の周りの人間への誠意に見える。
ECDへの思いに押しつぶされそうになっていたときには、友人にとりもってもらい年下のバンドマンに会いに行ってしまう。その日のうちに関係が発展してしまっても良かった、と。でも、普通に考えたらそもそもそういう約束で会っていない相手と関係を発展させることはとても難易度が高いはずだが、植本にとってはそうでもないらしい。おそらく過去にもそのようなことがたくさんあり、その都度成就させてきたのだろうと思う。
若くして才能のある人には多くの人が引き寄せられる。そして、著名であればなおさら。彼女の場合は本人ももちろんそうだが、亡き夫にもネームバリューがあり、彼女と近づきたいという人は果てしなくいることは想像に難くない。
でも、そうやって引き寄せられてきた人は彼女の求める人材ではない。おそらく分かり切っていているだろうが、それでも誰かを求めることがやめられない。
作中ではたびたび、植本と母が絶縁したことを咎めるような人物が登場する。彼女の著作を読んでいたらそんな感想は出てこなさそうだが、“先生”からも説明不足だと指摘される。そこでふと、毒親に育てられず見たこともない人たちのその点に関しての想像力に期待してはいけないのだなと思い至った。
通常、親は子どもを尊重して当然であり、多くの人はそうやって育てられてきている。人格を否定するような怒り方や接し方はしないのが普通の人間で、そうできない人の脳には問題がある。当人たちはこれに気づけず、悪気なく大小の虐待を繰り広げる。虐待といえば性的、身体的なものに限定されると思いがちな人も多いがそうではなく、現在社会問題となっているのは心理的虐待だ。しつけや通常の叱咤との線引きが難しいが、子供が精神疾患を発症するようなものは総じて虐待である。
境界性人格障害は人との線引きができない障害である。だからポジティブな症状としては、人懐っこさがある。垣根をすっと超えてくるので、すぐ仲良くなれるし恋愛における発展もスピーディーだ。でも、悪く言えば相手の人生に土足で踏み込んでいってコントロールしようするのだ。悪気なく。自分の気に入るような態度を相手が取らないと、途端に手のひらを返したりもする。評価が最高と最低しかなく、感情は常にジェストコースターだ。
そんなふうにさせてしまうのは子供を育てた親であり、やはり母であることが多い。植本の著作を読むに母親は過干渉で癇癪持ちの上に、おそらく嫉妬深い。子のことを思い長年仕送りしたり生命保険に入っていたり段ボール箱いっぱいに果実や食品、子供たちの服などを送ってくるから、「ちょっと難しいけど良い母親」だと勘違いしてしまう読者が多いのだろうと思う。残念なら、それは誤読だ。
この母親の行動は完全に自己満足からのもので、相手の気持ちなどお構いなしだ。本当に子を思うのなら、金を振り込めばいいはずだ。そしたらその金で本人の好きなものが買えるのだ。でも、それを許さない。なぜならそこに自分が介在しないから。子供のすることなすこと全てに自分の選択肢が含まれていないと気がすまない。これは毒親の特徴である。
よく経済的に支えてくれた親のことを悪く言うなという人が多い。そういう人は決まって自分が経済的に大変な思いをしてきたか、逆に親にとても支えられてきたかだ。私立大学に通い学費と生活費を出してもらいながら生活し、親に心理的虐待され続けて自殺した人がどれくらい多いか想像もできないのだろう。
自分よりも裕福な生活をしている人が自分よりはるかに地獄を生きていることなんて、想像したくないんだろう。これが新たな地獄を生んでいるというのに。
『かなわない』からたびたび植本を導く存在として漫画家の安田弘之が登場する。その視点がとても白眉でシャープで首が痛くなるほど頷くことが多い。漫画でお忙しいとは思うが、いつか毒親育ちとかそういう生きづらさとかを抱えた人にむけての活字本を出してもらいたい。たぶん多くの人の希望になるだろう。
石田家関連本は5冊目。本当に簡単に触れると、才能ある若き写真家がアンダーグラウンドで人気を博した24歳年上のラッパーと結婚して娘を2人産み、恋人たちとの関係から一時は離婚を考えるもとどまり、ラッパーは57歳で癌により逝去するという流れ。
そもそも植本とECDとの交際スタート時から植本には交際を考えていた別の男性がいて、ECDに了承を得て3人で交際し始め、長女はこの恋人と一緒に育てたという経緯がある。これについて批判するのは完全にお門違いで、彼女がポリアモリーかどうかは分からないが(『台風一過』ではそうだとは思えないとの記述があった)、交際や恋や愛や育児にはさまざまな形があるべきで現にいろんなかたちで皆生きていっているので、彼女たちの場合はそうであったというだけである。個人的なことを言えば、良い生き方だなと思う。自分に素直であることは本当に大事だと年を取ってから痛感する。信念を捻じ曲げて生きていったりすると結局自分が苦しくなって歩けなくなってしまうので、いつだって正解は自分のやりたいようにすること、だ。
さて『降伏の記録』だが、ものすごく良かった。文章がうまいのは相変わらずだが、流れるようにつっかかりのない表現や比喩や描写がするすると入ってくる。細胞に馴染むのが上手な文というのだろうか。本来なら優しくしてあげればいいのに、と自分でも思いながらも死に向かいつつあるECDの存在を受け入れられないという正直な気持ちや、その苦しさ、絶縁した母との関係や育てられ方に起因する苦悩などが丁寧に書き連ねられていた。
たしか『かなわない』で植本は境界性人格障害だと診断されたことを告白していた。少なくとも『家族最後の日』までは「誤診では?」と思っていたが、本作ではその診断もあながち間違っていなかったのかもしれないと感じさせるスリリングな記述がいくつかあった。というのも、彼女には友人がたくさんいて距離の近い人間とはとてもバランスの良い関係を築いていた。しかし『降伏の記録』では精神状態がより不安定だったこともあり、人間関係が危ういバランスで保たれていることがそこかしこから顕著になる。
特に友人や気になる男性への気持ちは、ほんのちょっとしたことでいとも簡単にくずれてしまいそうだった。家族ぐるみで親しい男性の友人への気持ちが友情なのか恋愛感情なのか分からなくなる。それを、家族が読んでしまうことを知っていながら書いてしまう。でもこれは、隠してしまうと嘘になるのだ。彼女にとって、包み隠さず書くことは自分の周りの人間への誠意に見える。
ECDへの思いに押しつぶされそうになっていたときには、友人にとりもってもらい年下のバンドマンに会いに行ってしまう。その日のうちに関係が発展してしまっても良かった、と。でも、普通に考えたらそもそもそういう約束で会っていない相手と関係を発展させることはとても難易度が高いはずだが、植本にとってはそうでもないらしい。おそらく過去にもそのようなことがたくさんあり、その都度成就させてきたのだろうと思う。
若くして才能のある人には多くの人が引き寄せられる。そして、著名であればなおさら。彼女の場合は本人ももちろんそうだが、亡き夫にもネームバリューがあり、彼女と近づきたいという人は果てしなくいることは想像に難くない。
でも、そうやって引き寄せられてきた人は彼女の求める人材ではない。おそらく分かり切っていているだろうが、それでも誰かを求めることがやめられない。
作中ではたびたび、植本と母が絶縁したことを咎めるような人物が登場する。彼女の著作を読んでいたらそんな感想は出てこなさそうだが、“先生”からも説明不足だと指摘される。そこでふと、毒親に育てられず見たこともない人たちのその点に関しての想像力に期待してはいけないのだなと思い至った。
通常、親は子どもを尊重して当然であり、多くの人はそうやって育てられてきている。人格を否定するような怒り方や接し方はしないのが普通の人間で、そうできない人の脳には問題がある。当人たちはこれに気づけず、悪気なく大小の虐待を繰り広げる。虐待といえば性的、身体的なものに限定されると思いがちな人も多いがそうではなく、現在社会問題となっているのは心理的虐待だ。しつけや通常の叱咤との線引きが難しいが、子供が精神疾患を発症するようなものは総じて虐待である。
境界性人格障害は人との線引きができない障害である。だからポジティブな症状としては、人懐っこさがある。垣根をすっと超えてくるので、すぐ仲良くなれるし恋愛における発展もスピーディーだ。でも、悪く言えば相手の人生に土足で踏み込んでいってコントロールしようするのだ。悪気なく。自分の気に入るような態度を相手が取らないと、途端に手のひらを返したりもする。評価が最高と最低しかなく、感情は常にジェストコースターだ。
そんなふうにさせてしまうのは子供を育てた親であり、やはり母であることが多い。植本の著作を読むに母親は過干渉で癇癪持ちの上に、おそらく嫉妬深い。子のことを思い長年仕送りしたり生命保険に入っていたり段ボール箱いっぱいに果実や食品、子供たちの服などを送ってくるから、「ちょっと難しいけど良い母親」だと勘違いしてしまう読者が多いのだろうと思う。残念なら、それは誤読だ。
この母親の行動は完全に自己満足からのもので、相手の気持ちなどお構いなしだ。本当に子を思うのなら、金を振り込めばいいはずだ。そしたらその金で本人の好きなものが買えるのだ。でも、それを許さない。なぜならそこに自分が介在しないから。子供のすることなすこと全てに自分の選択肢が含まれていないと気がすまない。これは毒親の特徴である。
よく経済的に支えてくれた親のことを悪く言うなという人が多い。そういう人は決まって自分が経済的に大変な思いをしてきたか、逆に親にとても支えられてきたかだ。私立大学に通い学費と生活費を出してもらいながら生活し、親に心理的虐待され続けて自殺した人がどれくらい多いか想像もできないのだろう。
自分よりも裕福な生活をしている人が自分よりはるかに地獄を生きていることなんて、想像したくないんだろう。これが新たな地獄を生んでいるというのに。
『かなわない』からたびたび植本を導く存在として漫画家の安田弘之が登場する。その視点がとても白眉でシャープで首が痛くなるほど頷くことが多い。漫画でお忙しいとは思うが、いつか毒親育ちとかそういう生きづらさとかを抱えた人にむけての活字本を出してもらいたい。たぶん多くの人の希望になるだろう。