映画「あんのこと」を見る。
小学生のころから母親に売春させられて覚醒剤使用で捕まり、そっから更生していくも、結局毒親とかコロナ禍とかが足を引っ張って自殺してしまう一人の女子・あんの話。実話が元ネタ。
評判を見るとあんが気の毒かわいそうっていう言葉にあふれていた。その通りだとは思うけど、根本的な原因は母親でそんな母親を作った祖母なわけで、不幸にする子どもを作らないようにするのが何よりも大事なんだけど、国はどんどんそういう子どもを量産するような未来に突き進んでいっているね、と思った。
ああいう母親はどういう特徴を持つのか。知能の程度は、生育環境は、人格障害発達障害はないのか、とか。そういうのを自治体とかが把握して子どもを虐待しないかどうか目を光らすしかない思う。例え、ひとりまたは夫婦だけでは育てられない人でもどうぞ産んでくださいってしてるんだから、それなら、ちゃんと支援すべき。子どものために。親のためでもある。産んでどうぞ、助けないけど、ってしたら迷惑を被るのは子どもなんだよ。
あんの場合は母親が完全に毒というか、おそらく若干知的に問題を抱えていて生きづらさから売春するしかなく、子どもにも同じようにさせて手放そうとはしない。あんは母親に「ママ」って呼ばれてる。気持ち悪いし不気味。完全に依存してる。そういう演出。
あんは祖母への感謝から逃げられない。でも、理解のある警察官と記者との出会いからシェルターで生活するように。なのに、警察官が性犯罪で逮捕。通っていた自助グループやヨガ教室も閉鎖。さらに夜間学校もコロナで休校に。勤務先もコロナのあおりを受けて出勤できなくなる。
いろんなことが積み重なった中で唯一の光に出会う。同じシェルターに住んでいた人に小さな子どもを押し付けられる。その男児をまるで自分の子どものように大事にお世話するあん。これに希望を見出すけどまた母親の妨害にあって、売春させられ、子どもは取り上げられ、絶望して自殺する。
この後半のあたりに少し疑問が浮かんだ。児相への連絡は毒母の唯一の正しい選択で、男児が連れていかれたことも本来なら最善の着地なのに、あんはそれが分からない。というか、分かりたくもない。
あと映画にはもうひとり毒母が登場する。あんに子どもを預けた女だ。しかし彼女は最後、児相から子どもを取り返すのが大変で…って語っているように、なんかちょっといい人っぽく描かれてる。いや、どう考えても突然子どもを同じマンション(シェルターはマンション)の住人に預けてドロンするってヤバい人でしょ。児相何してんの。でもこちらはあんに希望を与えた聖母みたいに描かれる。実母の鬼のような形相とは対照的に。
それから、あんの自殺の背中を押したのも、子どもを取り上げられたからだったんだけど、同じシェルターに住んでるんだからまたそのうち会えるし、何なら駄目な母親からしょっちゅう預けられることになろうことは容易に想像できるんだけど、あんにはそれができない。
はっきりと書かれてはいないけど、おそらくあんも知的か発達に問題を抱えているだろうことは映画が進むにつれて鑑賞者がうっすら気付いていくことになる。
実際、境界知能かぎりそのラインを超えているくらいの人と話すと、ごくわずかな情報からありえないような答えを導き出してそれを真実だと頑なに信じ込むことが多々あるなと感じる。圧倒的な想像力のたりなさなんだけど、それは知能の低さとも同義である。日本は知能がちょっとくらい低くても堅実性が高ければどうにかなることもあるけど、それすら低い人はやはりあぶれていく。自分の好きなことしかできないとか。顔が良くて若いときはどうにか切り抜けたど、35超えて現実の厳しさにやっと気付いたときにはもう遅いとか。
認知の歪みは幼少期から訓練して正していくしかなく、それでもいろんなコンプレックスや苦労から精神的にも問題を抱えやすい人たちはいる。
それ以前に、あんのように訓練とかそういう話にまず行き着かない人もいる。
彼女は自殺だったけど、他殺に向かう人もいる。別の作品ではそういう人たちが他殺する様子も描かれている。
え、そこでそうする? みたいなことが映画を見ていて結構あった。それこそが認知の歪みゆえなんだなと。そういう人たちが売春させられず覚醒剤に手を出さず自殺も他殺もせずに生きていける世の中に、今の日本がなるわけもなくむしろ増えていくと思うけど、当事者の人たちはまずは誰かを頼るってことを覚えてほしいなと思った。
小学生のころから母親に売春させられて覚醒剤使用で捕まり、そっから更生していくも、結局毒親とかコロナ禍とかが足を引っ張って自殺してしまう一人の女子・あんの話。実話が元ネタ。
評判を見るとあんが気の毒かわいそうっていう言葉にあふれていた。その通りだとは思うけど、根本的な原因は母親でそんな母親を作った祖母なわけで、不幸にする子どもを作らないようにするのが何よりも大事なんだけど、国はどんどんそういう子どもを量産するような未来に突き進んでいっているね、と思った。
ああいう母親はどういう特徴を持つのか。知能の程度は、生育環境は、人格障害発達障害はないのか、とか。そういうのを自治体とかが把握して子どもを虐待しないかどうか目を光らすしかない思う。例え、ひとりまたは夫婦だけでは育てられない人でもどうぞ産んでくださいってしてるんだから、それなら、ちゃんと支援すべき。子どものために。親のためでもある。産んでどうぞ、助けないけど、ってしたら迷惑を被るのは子どもなんだよ。
あんの場合は母親が完全に毒というか、おそらく若干知的に問題を抱えていて生きづらさから売春するしかなく、子どもにも同じようにさせて手放そうとはしない。あんは母親に「ママ」って呼ばれてる。気持ち悪いし不気味。完全に依存してる。そういう演出。
あんは祖母への感謝から逃げられない。でも、理解のある警察官と記者との出会いからシェルターで生活するように。なのに、警察官が性犯罪で逮捕。通っていた自助グループやヨガ教室も閉鎖。さらに夜間学校もコロナで休校に。勤務先もコロナのあおりを受けて出勤できなくなる。
いろんなことが積み重なった中で唯一の光に出会う。同じシェルターに住んでいた人に小さな子どもを押し付けられる。その男児をまるで自分の子どものように大事にお世話するあん。これに希望を見出すけどまた母親の妨害にあって、売春させられ、子どもは取り上げられ、絶望して自殺する。
この後半のあたりに少し疑問が浮かんだ。児相への連絡は毒母の唯一の正しい選択で、男児が連れていかれたことも本来なら最善の着地なのに、あんはそれが分からない。というか、分かりたくもない。
あと映画にはもうひとり毒母が登場する。あんに子どもを預けた女だ。しかし彼女は最後、児相から子どもを取り返すのが大変で…って語っているように、なんかちょっといい人っぽく描かれてる。いや、どう考えても突然子どもを同じマンション(シェルターはマンション)の住人に預けてドロンするってヤバい人でしょ。児相何してんの。でもこちらはあんに希望を与えた聖母みたいに描かれる。実母の鬼のような形相とは対照的に。
それから、あんの自殺の背中を押したのも、子どもを取り上げられたからだったんだけど、同じシェルターに住んでるんだからまたそのうち会えるし、何なら駄目な母親からしょっちゅう預けられることになろうことは容易に想像できるんだけど、あんにはそれができない。
はっきりと書かれてはいないけど、おそらくあんも知的か発達に問題を抱えているだろうことは映画が進むにつれて鑑賞者がうっすら気付いていくことになる。
実際、境界知能かぎりそのラインを超えているくらいの人と話すと、ごくわずかな情報からありえないような答えを導き出してそれを真実だと頑なに信じ込むことが多々あるなと感じる。圧倒的な想像力のたりなさなんだけど、それは知能の低さとも同義である。日本は知能がちょっとくらい低くても堅実性が高ければどうにかなることもあるけど、それすら低い人はやはりあぶれていく。自分の好きなことしかできないとか。顔が良くて若いときはどうにか切り抜けたど、35超えて現実の厳しさにやっと気付いたときにはもう遅いとか。
認知の歪みは幼少期から訓練して正していくしかなく、それでもいろんなコンプレックスや苦労から精神的にも問題を抱えやすい人たちはいる。
それ以前に、あんのように訓練とかそういう話にまず行き着かない人もいる。
彼女は自殺だったけど、他殺に向かう人もいる。別の作品ではそういう人たちが他殺する様子も描かれている。
え、そこでそうする? みたいなことが映画を見ていて結構あった。それこそが認知の歪みゆえなんだなと。そういう人たちが売春させられず覚醒剤に手を出さず自殺も他殺もせずに生きていける世の中に、今の日本がなるわけもなくむしろ増えていくと思うけど、当事者の人たちはまずは誰かを頼るってことを覚えてほしいなと思った。