映画「車軸」を見た。
原作は同名の小説。どうやら内容がけっこう省かれているらしく、映画では分かりづらい描写が多かったけど、錫木うりの存在感と透明感がとてもよかった。
物語の軸にあるのはバタイユ。神秘の存在と穢れを対比としてでなく、同等の聖なる存在として論じてきた人なんだけど、彼による神秘体験はいわゆるエロスとタナトスで、その発露から人の本質に触れようとした。
で、なんで本質に触れたかったのか。バタイユは特異な生育環境から平凡な人生を歩むことは許されず、それ故に神秘体験を求め続けた。普通に平均から外れず平凡こそ幸せとなだらかな人生を歩める人はたぶん求めないんだろうけど、そもそもそういう生を与えられなかったバタイユはどうしても知りたくなってしまった。人間について。生について。
そして自らの極限の体験によって、新たな視点を獲得したかった。というか多分できつつあったのだろうと思う。
個に閉じ込められていることこそ苦悶であり、神秘体験は解放の鍵。結局は強烈な苦しみから逃れたいという根源の本音が彼を突き動かしたのかな。
不幸に生まれたことが、彼に新たな視点を獲得するためのきっかけを与えた。皮肉だ。
映画に登場するのは『マダム・エドワルダ』。『眼球譚』でも良かったのでは? と思ったけど、解放というキーワードをなぞるなら後者だと破滅(=解放)となるので、物語の趣旨に合わなかったのかな。
原作では主人公と潤さんが惹かれ合っていくらしい。ということはあの涙はホストへの嫉妬? 生きづらさを抱える自分のふがいなさの涙かと思ったのだけど。
ラストシーン直前の主人公の寝転んで……のところがとても良かった。すがすがしい。精神の一線を超える人たちと、超える可能性すら知らずに死んでいく人たち。
バタイユに限らずこういう哲学なり思想関連の本は形は違えど、だいたい同じことを言ってるよね。『書ける人になる! 魂の文章術』(翻訳タイトルひどすぎ……名著→米人気作家の文章を書く上での姿勢と思考をまとめた一冊。。ノウハウ本とはちょっと違う。エッセイ)でも、拒否せず一度全てを受け入れる目と姿勢が必要みたいなことが書かれていて、それこそ個を脱ぎ捨てることだと感じた。
じゃあなぜ個を捨てる必要があるのか。憎しみやこだわり、偏見、苦しみは全て個であることに由来するから、と説く哲学者は多い。個を捨てたら苦しみも捨てられる。でもそれがめちゃ難しいよ、だから極限の体験によって少しずつ手放していけばよくない? って話なんだと思う。
で、その極限の体験がバタイユの場合はエロスとタナトスで、眼球譚とかマダム~に出てきた狂乱の数々。普通の人はそんなことしないよ、変態? って思う人は曲がれ右。普通の人の話じゃないから。普通でいられなかった人たちの話なのね。普通は一番の幸せだし実は簡単に手にはいらないもの。でもそれを手にしているのなら、バタイユには触れなくていいと思う。そしてこの映画にも。
ただのエロいこととかちょっと変態じみたことが好きとかそういう話も違うんだよね。その狂乱によって得られる脳がショートする感覚。それこそが新たな視点を獲得できるきっかけになる。儀式とかそういう感じ。ある日雷に打たれたとか、そういう感じ。なんか神話にもあるよね。いつの時代もそういうのが思考の進化において重要視されてきたのかな。
原作は同名の小説。どうやら内容がけっこう省かれているらしく、映画では分かりづらい描写が多かったけど、錫木うりの存在感と透明感がとてもよかった。
物語の軸にあるのはバタイユ。神秘の存在と穢れを対比としてでなく、同等の聖なる存在として論じてきた人なんだけど、彼による神秘体験はいわゆるエロスとタナトスで、その発露から人の本質に触れようとした。
で、なんで本質に触れたかったのか。バタイユは特異な生育環境から平凡な人生を歩むことは許されず、それ故に神秘体験を求め続けた。普通に平均から外れず平凡こそ幸せとなだらかな人生を歩める人はたぶん求めないんだろうけど、そもそもそういう生を与えられなかったバタイユはどうしても知りたくなってしまった。人間について。生について。
そして自らの極限の体験によって、新たな視点を獲得したかった。というか多分できつつあったのだろうと思う。
個に閉じ込められていることこそ苦悶であり、神秘体験は解放の鍵。結局は強烈な苦しみから逃れたいという根源の本音が彼を突き動かしたのかな。
不幸に生まれたことが、彼に新たな視点を獲得するためのきっかけを与えた。皮肉だ。
映画に登場するのは『マダム・エドワルダ』。『眼球譚』でも良かったのでは? と思ったけど、解放というキーワードをなぞるなら後者だと破滅(=解放)となるので、物語の趣旨に合わなかったのかな。
原作では主人公と潤さんが惹かれ合っていくらしい。ということはあの涙はホストへの嫉妬? 生きづらさを抱える自分のふがいなさの涙かと思ったのだけど。
ラストシーン直前の主人公の寝転んで……のところがとても良かった。すがすがしい。精神の一線を超える人たちと、超える可能性すら知らずに死んでいく人たち。
バタイユに限らずこういう哲学なり思想関連の本は形は違えど、だいたい同じことを言ってるよね。『書ける人になる! 魂の文章術』(翻訳タイトルひどすぎ……名著→米人気作家の文章を書く上での姿勢と思考をまとめた一冊。。ノウハウ本とはちょっと違う。エッセイ)でも、拒否せず一度全てを受け入れる目と姿勢が必要みたいなことが書かれていて、それこそ個を脱ぎ捨てることだと感じた。
じゃあなぜ個を捨てる必要があるのか。憎しみやこだわり、偏見、苦しみは全て個であることに由来するから、と説く哲学者は多い。個を捨てたら苦しみも捨てられる。でもそれがめちゃ難しいよ、だから極限の体験によって少しずつ手放していけばよくない? って話なんだと思う。
で、その極限の体験がバタイユの場合はエロスとタナトスで、眼球譚とかマダム~に出てきた狂乱の数々。普通の人はそんなことしないよ、変態? って思う人は曲がれ右。普通の人の話じゃないから。普通でいられなかった人たちの話なのね。普通は一番の幸せだし実は簡単に手にはいらないもの。でもそれを手にしているのなら、バタイユには触れなくていいと思う。そしてこの映画にも。
ただのエロいこととかちょっと変態じみたことが好きとかそういう話も違うんだよね。その狂乱によって得られる脳がショートする感覚。それこそが新たな視点を獲得できるきっかけになる。儀式とかそういう感じ。ある日雷に打たれたとか、そういう感じ。なんか神話にもあるよね。いつの時代もそういうのが思考の進化において重要視されてきたのかな。