春日武彦『自殺帳』を読む。さまざまな自殺者が登場する小説や実際の記事、自殺者のタイプ、著者が出会った自殺した患者の話などが収録されている。春日武彦は本職が精神科医だがドラマだったか映画の原作も手掛けていることから作家にも分類されると思うんだけど、とにかく文章がうまい。何をどう思い考えているのかが非常に適切に表現されているため、ここまで言葉を巧みに操ることができたなら相当楽しいのだろうなと思うけど、たぶん当人としてはそういうわけでもないのだろう。
本作では印象的な自殺者が多く登場する。中でも冒頭に登場した著者の患者の話は印象的。その患者はかなり嫌われるタイプの性格で最終的には飛び込み自殺しているが、その前日に顔に蠕動する胃粘膜のような隆起が現れたのを著者が確認している。理由は不明。後に患者の母親が病院に乗り込んできて、毒を盛られたと騒ぐが真相は闇の中。
そういえば、たしかロシアの要人が数年前に毒殺された際、その直前に顔だったか首がボコボコに腫れ上がっていたという記事を見掛けたことがあった。でも別にこの患者は毒をもられたわけではなく、その不気味な隆起はなぜ突然顔に浮かび上がったのか未だ謎のままである。
こんな、ちょっと印象的な自殺者のエピソードが満載で、悲壮感あふれることなくセンチメンタルにもならず、ただ淡々と書かれているので読みふけってしまった。
自殺とえいば、私は30代までに友人が複数自殺を遂げているので人より少しその方面への興味が強いかもしれない。自殺かどうか不明な人を含めば、さらに多い。世間的にはいわゆる“無敵の人”“弱者男性”“貧困女子”のような人たちが自殺しそうなタイプとしてまず想像されそうだが、自殺した友人たちは成績優秀でルックスもよく、家族や家庭に恵まれているタイプが多かった。ただし非常に繊細で傷つきやすいという点では共通していて、彼らがもしそのときの自殺を完遂できなかったとしても、この世知辛い世の中で生き延びられたとは考えづらい。
大好きな友人たちでそれぞれにとても助けられたし、たくさんのよい思い出がある。何度も夜通しで遊んだこと、仲間内で一緒に旅行したこと、とりとめのない話でも何時間でも楽しく語らえたこと。ただただ優しかったなあ、おもしろい人だったなあという記憶が残っている。
そのうちの1人との、今でもよく覚えているエピソードがある。あるとき突然「あんたの金で酒が飲みたい」という電話がかかってきた。別にこの電話はたかられてるとか優位に立ったものからの威圧的な電話ではなく、相手は冗談のつもりだった。おそらく私が煩わしそうに断るだろうことを予想していて、結局はいつも通り宅飲みか居酒屋か焼肉屋で安酒をすすることになるだろうと思っていたと思う。
なので「はあ? ふざけんなよ。飲みなら割り勘だ、割り勘!」と返したと思うし、金がないのら出直せと言っただろうと思う。ただ、当時の経済状況を互いに何となく知っていて、私にはたまたま余裕があって相手はおそらくあまり懐に余裕がなかったのだろう。そういう事情もあって「あーまあいいけど。仕事終わりに◯◯駅に集合な」というと相手は「え、まじ!?」と若干驚きつつも、しめたという感じで約束を取り付けた。その後待ち合わせして、居酒屋とバーを巡って飲みながらさんざん仕事や趣味に関していつも通り語って、少し仕事に関しても相談されたと思う。いい感じに酒が回った夜中の3時位にタクシーで帰路についた。約束だったので帰りの交通費も含めて全額私が支払う代わりに、タクシーを拾ってこいと走らせたのを覚えている。雨に濡れたアスファルトに信号機の赤や緑が映り込んでいて美しかった。熱帯魚が泳ぐ小洒落たバーの静かな雰囲気や熱っぽく仕事について語る友人の横顔もよく覚えている。楽しい時間だった。
友人が亡くなる5年前くらいのことだ。その後は、いつも通り食事をしたり飲みに行ったりしたが割り勘だった。しばらくして、友人は体調を崩して入退院を繰り返すことになり、亡くなる1年前に電話をしたのが最後だった。仕事に関して叱咤激励されたのを覚えている。
友人は常に冗談めかして「おまえが成功したらでかいマンションを買って、その一室で俺とか◯◯とかが住むってのはアリかな」と口にしていた。能力としてはどう考えても友人の方が高かったが、この生きづらい世の中で“普通に”生きることがどれほど息苦しいことかを当時から痛感していたのかもしれない。
死にたい人間を無理やり思いとどまらせることには反対である。よく自殺者のニュースの末尾には、「いのちの電話」とかそういう系の機関への連絡先が明記されているけれど無意味だと思う。死にたい人は深く考え抜いた末に自殺を選んでいるわけで、その後に続く地獄と天秤にかけて自殺の方がより幸せだと判断したから決断しているのだ。それを悲しい選択だと思うのは個人の自由だとしても、無理に止めるのはいただけない。ただその人が熟考して導き出した結論を受け入れ、これまでを感謝して見送るべきではないか。
この世が生きる価値に溢れキラキラしているのは一部の人間に対してのみで、自殺したいと思う人や希死念慮のある人にとっては地獄でしかない。たかがカウンセリングしたくらいで人生観は変わらない。生きろ生きろと無闇に突きつけてくる人の無意識の暴力こそ、本当に恐ろしいほど冷酷だなと感じる。また、人には尊厳がある。惨めには生きていたくないのだ。それを全く理解しない安楽死・尊厳死否定派の声にはうんざりする。
友人たちが自殺し、その都度泣きながら通夜や葬儀に参列し、黄黒くなった顔や青白くなった顔を眺めながら最後の言葉をかけ、高熱で焼かれて箸でつまむだけで崩れるほど脆くなった骨を拾わせてもらった。しばらくは悲しみに暮れ、今でも彼らの楽しそうな表情を思い出すが、それでも自殺を思いとどまらそうとはどうしても思えなかった。自分のエゴでしかないから。止めていいのは彼らのメンタルを全面的にフォローしながら金銭的に支えられる存在だけ。そんな人間が誰一人としてそばにいなかったから、彼らは自殺した。その宿命を、ただ私は受け入れるだけだ。
本作では印象的な自殺者が多く登場する。中でも冒頭に登場した著者の患者の話は印象的。その患者はかなり嫌われるタイプの性格で最終的には飛び込み自殺しているが、その前日に顔に蠕動する胃粘膜のような隆起が現れたのを著者が確認している。理由は不明。後に患者の母親が病院に乗り込んできて、毒を盛られたと騒ぐが真相は闇の中。
そういえば、たしかロシアの要人が数年前に毒殺された際、その直前に顔だったか首がボコボコに腫れ上がっていたという記事を見掛けたことがあった。でも別にこの患者は毒をもられたわけではなく、その不気味な隆起はなぜ突然顔に浮かび上がったのか未だ謎のままである。
こんな、ちょっと印象的な自殺者のエピソードが満載で、悲壮感あふれることなくセンチメンタルにもならず、ただ淡々と書かれているので読みふけってしまった。
自殺とえいば、私は30代までに友人が複数自殺を遂げているので人より少しその方面への興味が強いかもしれない。自殺かどうか不明な人を含めば、さらに多い。世間的にはいわゆる“無敵の人”“弱者男性”“貧困女子”のような人たちが自殺しそうなタイプとしてまず想像されそうだが、自殺した友人たちは成績優秀でルックスもよく、家族や家庭に恵まれているタイプが多かった。ただし非常に繊細で傷つきやすいという点では共通していて、彼らがもしそのときの自殺を完遂できなかったとしても、この世知辛い世の中で生き延びられたとは考えづらい。
大好きな友人たちでそれぞれにとても助けられたし、たくさんのよい思い出がある。何度も夜通しで遊んだこと、仲間内で一緒に旅行したこと、とりとめのない話でも何時間でも楽しく語らえたこと。ただただ優しかったなあ、おもしろい人だったなあという記憶が残っている。
そのうちの1人との、今でもよく覚えているエピソードがある。あるとき突然「あんたの金で酒が飲みたい」という電話がかかってきた。別にこの電話はたかられてるとか優位に立ったものからの威圧的な電話ではなく、相手は冗談のつもりだった。おそらく私が煩わしそうに断るだろうことを予想していて、結局はいつも通り宅飲みか居酒屋か焼肉屋で安酒をすすることになるだろうと思っていたと思う。
なので「はあ? ふざけんなよ。飲みなら割り勘だ、割り勘!」と返したと思うし、金がないのら出直せと言っただろうと思う。ただ、当時の経済状況を互いに何となく知っていて、私にはたまたま余裕があって相手はおそらくあまり懐に余裕がなかったのだろう。そういう事情もあって「あーまあいいけど。仕事終わりに◯◯駅に集合な」というと相手は「え、まじ!?」と若干驚きつつも、しめたという感じで約束を取り付けた。その後待ち合わせして、居酒屋とバーを巡って飲みながらさんざん仕事や趣味に関していつも通り語って、少し仕事に関しても相談されたと思う。いい感じに酒が回った夜中の3時位にタクシーで帰路についた。約束だったので帰りの交通費も含めて全額私が支払う代わりに、タクシーを拾ってこいと走らせたのを覚えている。雨に濡れたアスファルトに信号機の赤や緑が映り込んでいて美しかった。熱帯魚が泳ぐ小洒落たバーの静かな雰囲気や熱っぽく仕事について語る友人の横顔もよく覚えている。楽しい時間だった。
友人が亡くなる5年前くらいのことだ。その後は、いつも通り食事をしたり飲みに行ったりしたが割り勘だった。しばらくして、友人は体調を崩して入退院を繰り返すことになり、亡くなる1年前に電話をしたのが最後だった。仕事に関して叱咤激励されたのを覚えている。
友人は常に冗談めかして「おまえが成功したらでかいマンションを買って、その一室で俺とか◯◯とかが住むってのはアリかな」と口にしていた。能力としてはどう考えても友人の方が高かったが、この生きづらい世の中で“普通に”生きることがどれほど息苦しいことかを当時から痛感していたのかもしれない。
死にたい人間を無理やり思いとどまらせることには反対である。よく自殺者のニュースの末尾には、「いのちの電話」とかそういう系の機関への連絡先が明記されているけれど無意味だと思う。死にたい人は深く考え抜いた末に自殺を選んでいるわけで、その後に続く地獄と天秤にかけて自殺の方がより幸せだと判断したから決断しているのだ。それを悲しい選択だと思うのは個人の自由だとしても、無理に止めるのはいただけない。ただその人が熟考して導き出した結論を受け入れ、これまでを感謝して見送るべきではないか。
この世が生きる価値に溢れキラキラしているのは一部の人間に対してのみで、自殺したいと思う人や希死念慮のある人にとっては地獄でしかない。たかがカウンセリングしたくらいで人生観は変わらない。生きろ生きろと無闇に突きつけてくる人の無意識の暴力こそ、本当に恐ろしいほど冷酷だなと感じる。また、人には尊厳がある。惨めには生きていたくないのだ。それを全く理解しない安楽死・尊厳死否定派の声にはうんざりする。
友人たちが自殺し、その都度泣きながら通夜や葬儀に参列し、黄黒くなった顔や青白くなった顔を眺めながら最後の言葉をかけ、高熱で焼かれて箸でつまむだけで崩れるほど脆くなった骨を拾わせてもらった。しばらくは悲しみに暮れ、今でも彼らの楽しそうな表情を思い出すが、それでも自殺を思いとどまらそうとはどうしても思えなかった。自分のエゴでしかないから。止めていいのは彼らのメンタルを全面的にフォローしながら金銭的に支えられる存在だけ。そんな人間が誰一人としてそばにいなかったから、彼らは自殺した。その宿命を、ただ私は受け入れるだけだ。